目的とは何か

結婚意欲が湧かないという結婚相談所に相談をしに来た人がいた。

33歳らしい。

年齢的に結婚したいということにはしたくない、好きな人ができたら結婚したいということを言っていた。

言葉の表面をなぞればなんでここに来たんだろうと思ったが、心の底では結婚欲が自分に湧かないかもしれないという恐怖があったからここに来たのではないかと思った。

周りにいた人は結婚って良いよって派の人だから、なんとなくそのバイアスがかかった意見を言っていたが、個人的には結婚したくないならしなきゃ良いじゃんとしか思わなかった。

結婚欲がわかないことの恐怖はなんだったんだろうか。

最期の日に1人は嫌だという恐怖なのだろうか。

一つの見方として、それが嫌だから結婚する、それはそれで良いんじゃないのとは思うし、とはいえそれだけをモチベーションに結婚はできないというのであれば、しなきゃ良いんじゃない、と思う。

自分にとって結婚はそれ自体あまり特別な意味はないかもしれない。

自分は昔からそんな感じかもしれない。

小さい頃からアレルギーがあり、米も食えず、粟、ひえを食べていた時期もあったり、アメリカに二度治療に行って、2週間程度注射をひたすら打たれまくった日もあった。

そんなこんなから漠然とアレルギーの完治ができるように研究者になりたいと漠然と思っていた。

少なくとも中3の時には京都大学に行きたいと理科室で同級生に言ったことを覚えている。ひょっとしたら京都大学医学部医学科とまで言ったかもしれない。

なんで京都大学にしたかははっきりとは覚えていないが、

①幼稚園年長から小3の1学期まで関西で過ごし、そこから転校したため関西に残してきたものを何処か感じていた。

②理系において京都大学出身者のノーベル賞数が日本一だった。

③祖父が京都帝国大学出身だった。

④小2から一緒だった同級生の親が京都大学医学部医学科出身だった。

といった理由でおそらく京都大学で研究したいと思ったのだと思う。

①これはなんとなくあって、小6と中3の卒業式に何故か神戸に行って参加していた。何故だかわからないんだけど、残してきたものがあった気がする。

②これは単純にそうだね、という感じ。

③なんとなく頭の片隅にあったのだと思うが、これ自体は強い動機ではない。

④凄さは小学生にはわからなかったが、京都大学医学部医学科を初めて聞いたのは同級生がきっかけかもしれない。

結局その同級生は高校から灘に行って、現役で東京大学理科Ⅲ類か京都大学医学部医学科落ちて(確か京都)、東京大学理科Ⅰ類に後期で受かって、仮面浪人1年して東京大学理科Ⅲ類に行った。今は医者やってるんじゃないかな。

高校受験の時も中学3年に駿台の模試を受けると名前が載っていておーと思ったのを記憶している。

兄貴も確か東京大学理科Ⅰ類かⅢ類だった気がする。

中3のGWに塾から出た難問を彼にFAX送ったら、さらっと解いてしまって格が違うはと思ったのをよく覚えている。

高校受験では自分は慶應に行くチャンスはあったが、やはり京都大学医学部医学科で研究したいという思いがあって、最後は大学非附属校に進学したいという気持ちだった。

行かなかったが海城高校に受かって入学金を親に振り込んでもらったと記憶している(今は高校入試ないらしい)。

結局、違う高校に行ったのだが行く可能性がある学校とそうでない学校は分けていた。

高校入ってからすぐ塾選びに奔走した。

色々見てみて、数学はSEG、英語はNEXUS、生物はZ会通信教育みたいな感じで選んだと思う。数学は木村浩二先生という素晴らしい先生に出会え、ただただ幸運だったと思う。

理科の選択は特殊で、京都大学医学部医学科の後期が確か生物必修で、物理と化学からの選択だった。

研究したかったこと、また、中学時代物理がさっぱりわからなかったことを踏まえて、物理を高校中に克服したく、物理と生物を選択することとなった。(中学の物理とか覚えてないけどΔt中の平均速度とかなんかそんなことを求めさせられて、何の意味があんねんって感じで嫌いだった)

高2からは数学SEG、英語はNEXUS辞めて平岡、物理はSEG、生物はZ会通信教育(高1分のを提出始める)、国語はニルの学校で現代文と古文という布陣で塾漬だった。

数学(と英語と生物)以外は伸びなかった。

物理まじでさっぱり。

国語もさっぱり。

とはいえなんだかんだ勉強はしてたな。

物理をもう1年早く始めてたら色々違ったかもしれない。

高3からは数学SEG、英語は平岡、物理はSEG、生物はZ会通信教育(高2分のを提出始める)、国語はニルの学校2周目。

数学と物理が伸びて、英語は高2でいい感じになった後勉強しなかったら見事に落ちていき、生物は締め切りに追われて、国語はようわからん(宿題も手が回っていなかった)。

結局、センター8割いかなかったんじゃないかな。

足切りの可能性がある中、前期は京都大学医学部医学科に出願し、見事に足切り。

後期はさすがに受験できないと元も子もないので京都大学理学部に出願した。

理学部はセンター6割取れば、後は二次試験の数学・理科の点数だけで合否が決まる。

センター試験より2次試験対策をずっとしてきたので、まだ戦えるかもと思ったが、結局40〜60点くらい足りずに不合格(400点満点)。

他の私大は受けてないと思う。確か。

そうそう中期で大阪府立大学の数理工学というところも受けたが、落ちた。

結局現役時には大学1つも受からず、終了。

ま、高校受験組はやはり大学受験不利なところがあるので、1浪は心のどこかで覚悟していたのだと思う。

そして某医学部専門予備校に行った。

京都大学医学部医学科受かってた人が合格体験記を書いていたことで気になったんだと思う。

後はSEGの有名な先生が化学講師をやっていたことも惹かれた。

その年から京都大学医学部医学科はセンター試験で理科3科目が課されたから化学の勉強が必要だったからだ(鬼畜)。

そこは英語と化学が良かった。

英語は社会人になってからもその先生の授業受けたな。

もうずっと勉強漬けで好きだった音楽も聴くのを一年やめた。

勉強中に眠くなったら寝てたけど。

予備校も月〜金で1日午後13時から16時だけの一コマしか無かった。

月曜日 英語

火曜日 物理

水曜日 化学

木曜日 生物

金曜日 数学

土曜日 国語?

だったけな。忘れた。

ただ先生1対生徒2の授業で非常にありがたかった。

そうそう、東京にいて京都大学を目指すのに講座が少ないのも少人数制の塾を選んだ動機の一つだった。

もう一つの私大医学部志望のクラスの授業にもたまに混ざったな。

そんなこんなで英語をひたすらやらされた気がする。

もうずっとわけわかんない文章だった。

ただ11月くらいには京大模試で名前が載りそうなレベルまでは上がった。

国語は東進とか併用して使ったがダメだった。

数学は2学期からSEGと掛け持ち。

テストゼミだった気がする。

数学は苦手意識は無いが、なんか名前が載るほどは伸びきらなかった。

高2の時に受けた京大オープンは偏差値60超えて、これは高3かなり期待できるなと思ったものの、そううまくも行かなかった。大学への数学もう少しやれば、というかやる時間があればなという感じだった。

物理は雲Kの物理と教学社の問題集と坂間の物理が素晴らしかった。

高3で雲Kの物理受けて良かった。物理学が得意になったとは言えないが、物理の問題を数学に落とし込むことができるようになり、物理の問題は解けるようになった。

生物は結局何がベストかはわからなかった。大堀求さんの参考書は好きだったが、高得点には国語力が必要そうな感じだった。そういう意味では化学の方が計算できたと思う。

京大系の模試で医学部医学科は一度もC判定はいってないと思う。

ま、そんなこんなで、1浪時はセンター試験8割5分くらいだったかな。

京都大学医学部医学科・大阪府立大学工学部・京都大学理学部・慶應医学部・東京慈恵医科大学医学科・日本医科大学医学科・慶應理工・早稲田理工に出願。

最初は日本医科大学医学科だったかな。確か慶應理工と同じ受験日で、自分は研究したいからという理由で、慶應理工を受けると言ったが、日医を受けるよう丸め込まれたと記憶している。ま、京都大学に行きたかったのでそこはどうでも良い。

日医のテストについては、自分は体力なくてテスト中少し寝るのだが、英語の時間5〜10分寝たにもかかわらず、特待生で受かって驚いたことを覚えている。

そこから東京慈恵医科大学は補欠で157番くらいだったかな、それで繰り上げ合格、慶應医学部は1次試験落ち、早稲田理工は合格。

京都大学医学部医学科は100点差くらいで落ちてたんじゃないかな、確か。前期受け終わった段階で手応えが無く、3、4日ずっとやる気が起きなかった。大阪府立大学の受験入れておいて本当に良かった。

その後少しやる気が出て、後期試験に向けて少しずつ勉強を始めた。

京都大学理学部は京都大学では無く、関西文理で受けた。

自信はあるないという話では無く、何の気持ちも無かった。

ただ受けに来ているという感じ。

志願者が前期合格者抜いても800人くらい、合格者は31人くらい。これはガラガラ引きに行っているようなもの。

数学と理科は得意だと思っていたので、普通に解いて家に帰って解答速報見て、数学はおそらく6問中5問くらいは解けていたと思い、物理は一個計算ミスでドミノ倒しで間違えていた。

その翌日もう一回見直したところ、解答はあっているものの問題文読み間違えていたものがあった。

今でも覚えているが微分方程式の問題で水を注ぐ問題と抜く問題で、時間を逆回転させれば同じ現象なので、答えの時間だけあっていたというカラクリ。

そこから合格しているか不安な毎日(400点中35点失うのは流石に辛い)。

第一回WBCの日に合格発表だったが、日本が優勝してもレタックスが全然来ない。松坂大輔が優勝カップ壊してもまだレタックス来ない。

夜遅くに配達員が来て2階の自分の部屋でレタックスを開ける。

母親は隣の部屋で静かにしていた。

ま、31人しか受からんから、ガチャみたいなもんやで。

番号を見ていくと31個しかないからすぐ見つけられた。

あった。あったよ!

と母親に言い、母親が良かったーと言ったのを覚えている。

そして京都大学医学部医学科は行けなかったが、念願の京都大学には行けた。

ま、その後、仮面浪人やって京都大学医学部医学科のみ出願して、全然歯が立たなかったのを覚えている。でも仮面している時に初めて防衛医科大学の一次試験通過した。これ未だに謎。

仮面浪人して、あ、これはやっぱり無理だなと思って諦めがついた。

でも自分はアレルギーを治すために京都大学に来たため、2回生からは研究室に通うようになった。

という感じでやはり大きな目標があったから燃え尽きず来れたんだと思う。

長くなったが、結婚は目標が手前過ぎて、もっと大きく自分が何をしたいかを考えるのもいいと思う。

今日は遅くなったのでこんなところかな。

京都大学医学部医学科はやっぱり1、2ランク難しい。

やっぱり大学受験は中3から準備しないと間に合わない学部学科はあるな。(天才・体力お化け除く)

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